PICT-UP 2015年4月号を読んで

 これからするのは、あくまで私の目に映るやまちゃんのお話です。

 初主演となる映画の公開を控え、怒涛の映画誌ラッシュが始まった。今この瞬間捉えられるものを一つたりとも逃したくはない。そんな、傍から見れば狂気以外の何物でもない感情に突き動かされている私は、何の躊躇いもなくその全てを購入しては彼の思考の強さに惹かれ、美貌に溜息をつき、愛らしい言動に悶え苦しむ日々を送っている。

 そんな中、数日前に発売されたPICT-UPは私に他とは違う衝撃を与えた。インタビューの中で、これまで私が見てきて勝手に知ったような気になっていたやまちゃんとは結びつかない言葉が次々と飛び出したのである。

 小さなことから挙げてみよう。例えば、「目標は立てない」という話。以前―確か2010年前後の少年倶楽部だっただろうか―新年の目標を尋ねられた際、彼は一日一日に目標を持って過ごすことが目標だというようなニュアンスの回答をしていた。果たしてこの変化は何を意味するのだろう。もちろん本人はそのようなことは微塵も気にすることなく思いのままに成長してきたのだろうが、面倒な考察したい系のヲタクである私は何か理由をつけたかった。目標についての話をする前に彼は「自分の底を考えたことはない」と話している。ここで思い出したのは、QLAP!2013年1月号に掲載されたインタビューだ。以下、抜粋して引用させていただく。

「人からもよく『パンクしないの?』って言われたりするんですけど、俺、そもそもそうなったと感じたことがないからパンクの状態がわからないんです(笑)。もしかしたら今すでにパンクしてるのかもしれないけど、それもパンクだと思わなきゃパンクじゃないし、キツくてもそのぶん、自分の器のキャパを広げればいいんじゃない?って。容量は自分で作れるもんだと思ってるし、すごく忙しくても大変でも、その気さえあればどーとでもなるんじゃない?ってね(笑)」

ここでいう‟パンク‟は忙しさの話であるのに対し、PICT-UPで話しているのは演者としての可能性であるため、完全に並べて考えて良いものではないが、この二つの話にはどこか似たものを感じる。毎日に目標を持つと話していたあの頃からこれまでに様々なことを乗り越えて、人間として、いや普通の人間以上に一回りも二回りも大きくなった結果が目標を立てないという生き方なのではないだろうか。目先のことではなく、その一手も二手もまだ見えない百手先までもを見据えて歩もうとしているのだ。

 また、「理想像がない」と言っていたのも意外だった。私にとって彼はずっと‟なりたい自分になるための努力を惜しまない人‟というイメージが強かったからだ。しかしこれに関して言うと、変化したのは考え方でなく表現の仕方のみのように思われる。「俺は俺だから」という言葉から分かるように、理想像がないというよりも、彼にとっての理想とは既存の誰かや何かを指すのではなくあくまで突き詰めていった先の自分自身であるという意味だと捉えたのだ。

 前置きが長くなってしまったが、ここからが本題である。私がPICT-UPを読んで最も驚いたのは、自らがセンターを張っているのだときっぱり言い切ったことなのだ。なぜなら私の目には、長年彼は自分をグループの顔的存在であるのだと明言することを避けているように映っていたから。それが、本当にここ数か月の間に大きく変わった気がする。対談内でメンバーから「うちのセンター」と言われるようになったこと、同じくメンバーから度々「グループを引っ張ってくれている」と評価されてきたこと、いわゆる‟雪解け‟でゆうとくんとの間にあった蟠りがなくなったこと、お酒の力を借りてメンバー同士本音で語り合う機会が増えたこと等その要因としては様々なものが思い浮かぶが、決定打となったのはやはりメンバー個々人の仕事が増えてきたことなのだろう。自分以外が目立つようになってようやく自分も目立とうと思える。それが私の思う山田涼介という人間だ。

いや、「目立とうと思う」という表現は少し違うかもしれない。彼は別に特別目立ちたいわけではない。ただみんなの期待に応えたいだけなのだ。これについては10000字インタビューを読んだときに似たようなことを考えたことがあったため、ツイログから拾って推敲し一つの文章にまとめてみた。

 

MYOJO 2014年8月号 10000字インタビュー感想 - 他の誰でもない君の、

 

 さてPICT-UPの話に戻ろう。だからこそ、インタビュー終盤の「それ(物語の中心に立つということ)をやらなきゃいけないっていうことがわかっている」という言葉は、泣かずにはいられなかった。遂に完全に受け入れたのだなぁと。それでも「だからこそ、空気になってみたい」とも話しているのがとても彼らしい。ベクトルが正反対であるはずの感情がぶつかり合うことなくしっかりと共存していて、その両方の気持ちを明かしてくれる、そんなところが大好き。

メンバーをライバルだとして競り合おうとしているのも変化だ。ほんの半年前の10000字インタビューでは「同じ歩幅で歩き出した」という表現をしていた。この変化をもたらしたのも「センター」と名乗り始めた理由と同じような気がする。全員が並んで同じ歩幅で歩き始めるという彼らにとって本当の意味でのスタートラインに立てたからこそ、ゆっくりな人に合わせるのではなく速い人についていこうとするグループへとシフトしたように見受けられるのだ。

PICT-UPを読んだ直後に投稿したツイートでは物分かりの良い振りをしていたのだが、

実際はその変化についていけていない自分がいた。何というか、戸惑ってしまったのだ。その変化が良いものだとか悪いものだとかそういった次元の話ではなく、自分で勝手に知った気になっていた彼がこれまた勝手にいなくなってしまったように感じてしまっていた。何とも愚かな話である。しかし、こうしてじっくりと彼の紡ぎだす言葉を考察してみることで、自分のよく知る彼を見つけることができた。これは、正負の感情を問わずできる限り自分の思いを教えてくれる彼のファンだからこそできる安心の仕方なのだろう。それだけの思考材料を与え、気持ちに寄り添ったような錯覚に陥らせてくれるのは、彼の優しさでも残酷さでも強さでも弱さでもあるように思う。しかしわたしは彼のそんなところが堪らなく好きなのだ。